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2010年1月

2010年1月30日 (土)

おんだ祭り

飛鳥坐神社の祭礼で「おんだ祭り」というのがあるらしい。
近所に住む明日香村出身の方から「一度見学に訪れたらよろしいで、ちょっと他では見られん祭りですからね。」と勧められていたのですが、これまでその機会に恵まれず足を運ぶことができませんでした。
ところが、えらいもんですね。ユーチューブにその祭り(神事)の様子がアップされて
おりましたので、若干、躊躇いつつもご紹介させていただきます。

「なんてお下劣な!」「こんな露骨な事してええんか?」というお叱りの声もあろうかとは思いますが、古の素朴な伝統行事ということでご勘弁願いたい。
(もっと見たいという方は、3/4もどうぞ。あまりの事に唖然といたします。)

民俗学の研究の為、あるいは知見を広げるためにも、ぜひ現地に行って体験して見たいと思われる方や「拭くの紙(福の神)を手に入れて、今年一年の運気を掴もう」と思われる方は、2月7日に現地まで行って下さい。

ところてん、この記事を書いているうちに、なぜか小林万里子を思い浮かべてしまいました。オマケにコレどうぞ。

YouTube: 小林万里子 / 朝起きたら... (Single Version)

まだまだ活動をされてるようでココ からも何曲かダウンロードでけます。
Stormy Bluesなんか、正に面目躍如といった所ですね。

2010年1月24日 (日)

ザ・マイティー・スパロウ

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昨日、実家の近くで最近オープンした「世界の大衆音楽とカリー&珈琲」のお店
“ザ・マイティー・スパロウ”まで出向いてまいりました。
オーナーは「ガロート珈琲」で知り合ったバンジョー弾きのK氏(中学の後輩でもある)という事もあり、実家に寄りがてらお邪魔したわけでございます。
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秘伝のカリー+チャパティーは、とても美味。
店内に飾ってある、ロングネックバンジョーやボタン・アコーディオンについての
お話をマスターから伺いながら、ゴージャスなひと時を過ごしてまいりました。
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ところで、マスター本人が王冠被ってギター弾いている写真の人というわけでは  ありませんので、お間違えの無いように。え?わかっとるわい!って? さよか。

というわけで、カリーといえばカーリー・ウイーバー。
エディー・マップの摩訶不思議なハープが躍動するコレですね。

2010年1月19日 (火)

生田伝八郎の墓

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一昨日の日曜日、寒さも和らいだので近所の史跡めぐりとシャレこみました。
大和郡山市に住む事二十数年、その割には郡山の市街地にはあまり足を踏み入れたことが無かったので、反省の意味も込めて散策した次第であります。
まず、最初に向かったのが千日町は常称寺にある「生田伝八郎」のお墓。
つまり、あの仇討崇禅寺馬場事件の敵役のお墓ですな。
崇禅寺馬場の仇討についてはココのサイトに詳しいので読んでもろたらええと思いますが、全く実も蓋も無いというか、救いが無いというか、悲劇的な話ですね。

さてその後、国立奈良高専に展示してある練習機を撮影し、富雄川を渡って郡山城跡へ向かう事といたしました。
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ところで、この練習機ですが正式名は「T6-テキサン」というアメリカ製の飛行機でして、米国の戦争映画で零戦に見たてて、しばしば登場したお馴染みの奴です。
(と、いつも近所のオッチャンに説明するのですが、『いや。あれは絶対零戦や』と聞いてくれません。)

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南郡山町の楠の巨木を撮影して「さあ、もうすぐ郡山城跡や。」と思った途端、
無情にも(メモリーカードが一杯になりました)という表示が出て、デジカメ君が
ダウン。涙を飲んで引き返す事といたしました。

しかし、これで引き下がっては男がすたる。昨日、通勤途上ちょっと遠回りをして
小泉町にある「親子塚」を撮影してまいりました。
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この塚も仇討にまつわるものでして、「哀れな話やな~。しかし荒木又右衛門の助太刀で有名な鍵屋の辻の決闘といい、この塚といい、郡山には仇討を巡る事件が多かったんやな~。なぜだらう。」との疑問が湧いてまいりました。

親子塚についてはココ読んでください。

ちょっと暗い物語が続いたので、後口直しコレどうぞ。


2010年1月16日 (土)

ビル・クイン大いに語る③

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「ただいま~。」
「お帰り~。って何処へ行ってましたんや。ほんまにぃ。」
「いやね。当時の事が懐かしくなってね、急に家でユーチューブ見たくなったんや。」
「ほ~。すると何ですか、あっちの世界でもパソコンが普及してるんですね。」
「あたりまえや。冥土 in USAやがな。」
「なんのこっちゃ。・・・ところで何を見てはったんですか?」
「ゴリー・カーターの“Rock Awhile”や。フリーダムが1949年、最初にヒットさせた作品や。」
「ふ~ん。戦後テキサスでのブルースをめぐる状況は、活気に溢れてたんですね。
ダウン・ホームスタイルありーの、ジャンプ・スタイルありーのと。」
「そのとおり。販買ルートの問題さえ無ければ、独立レーベルのフリーダムにしろマーシーにしろ短期間で潰れてしまう様な事は無かったと思うな。結局、生き残る事の出来たのはドン・ロビーのピーコックだけという結果に終わってしもーた。」
「なるほど。ビルさんがレコーディングを諦められたのもそれが原因ですね?」

「いや。それもあるけど、一番のドル箱やったハリー・コーツ、ライトニン、リル・サンの3人を失ったのが痛手やった。」

「と言いますと?」

「ハリー・コーツは、ちょっと酒癖の悪い男でな、演奏をすっぽかしたり、バンドメンバーといざこざを起こしたりする事も度々やったんや。そんなわけで、ワシも心配してたんやが、とうとう監獄送りになってしもうてな。」

「なんぞ刃傷沙汰でも起こされたんですけ?」

「いや、離婚後、子どもの養育費を払わんので保護者責任遺棄ちゅうわけで放りこまれたんや。そこで鉄格子に自分の頭を打ち付けて自殺したらしい。殴り殺されたのではないかという噂もあったがの。」

「あっら~。どっちにしても悲劇的な話ですな。」

「ライトニンはライトニンで『ボブ・シェドさん所で吹き込みますわ。ニューヨークに行ってきます。ほな、さいなら。』と勝手に去って行きよるし・・・。」

「あははは。ライトニンさんらしいですね。」

「笑い事や無いがな。ほんまに難儀な話じゃ。」

「その点、リル・サン・ジャクソンさんは大丈夫やったのとちがいますのん?」

「ところが、『弾き語りの時代は終わった。これからはバンドの時代や』と主張するようになって、意見の違うワシと対立や。とうとうインペリアルへ行ってしもうた。」

「そうなんですか。」

「絶対、リル・サン・ジャクソンは弾き語りスタイルや!君もそう思うじゃろが?」

「ま、ジャンプ物やジャズ風ドラムがバックについた作品は感心しませんが、けっこう素晴らしい作品も残してはるかと・・・・。」

「黙らっしゃい! ワシは気分を害した。」

「あれ~、すみません。あああ。とうとう帰ってしまいはりました。」

やっとお終い。



2010年1月10日 (日)

ビル・クイン大いに語る②

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「さて、前回のお話の続きからお聞かせいただきたいのですが、ハリー・コーツのレコードの売れ行き具合はどんなもんでしたんやろか?」
「いや~。それが期待以上の大当たりやがな。あっちゅう間に注文が殺到してな、プレスしてもプレスしても追いつかん状態や。」
「嬉しい誤算ですな。」
「さいな。そんな時にロスのモダーン・レーベルから協力したいと申し出があってな、『なんやったらウチでも作らせてもらいましょか?販売についても協力させてもらいますよ。』というわけや。」
「ほ~。よかったですやん。」

「ところがどっこい、甘い話には裏がある。ワシの知らん間にモダーンは、勝手に大量のコピーを自分の所で売り捌いて大儲けしよったんや。それだけやないで、迂闊にも作品のコピーライト取ってなかったもんで、大手メジャー・レコード各社もポップ・スター連中に好き放題に吹き込ませよってな。」

「ひどい話ですね。」

「その時に、人頼みはあかん。あくまでも国木田独歩で行くべきやとの教訓を学んだわけじゃ。」

「それも言うなら、独立独歩でしょ?」

「お約束通りの突っ込み、ありがとう。まぁ、それでもハリー・コーツの御蔭で稼ぐことが出来たんで、その後の活動と設備の拡充も楽になったよ。」

「ライトニン・ホプキンスの作品を手掛けられるようになったきっかけは?」

「あ、それはアン・カラム女史からの紹介があったからや。アラディンへの吹き込みでけっこう売れっ子になってたライトニンやが、あの時は博打の借金で首が回らん状況やったらしい。」

「そのアン・カラムさんて、路上でテキサス・アレクサンダーと演奏してたライトニンをスカウトした方でっしゃろ?」

「そうじゃ。あの当時はエイモス・ミルバーンのマネジメントで筒一杯でな、ライトニンまで手が回らん様子やった。エイモス・ミルバーンも彼女がサン・アントニオのナイト・クラブで見つけ出して来たんやで。」

「ほ~。なかなかセンスのある方でしてんね?」

「レスター・ウィリアムズやらサンダー・スミスのブッキング活動も盛んに展開してたみたいやけどな、後に“アーティスト・レコード”という会社を作ったのが間違いのもとやったな。結局、販売ルートは無いは、ドン・ロビーにタレントをごっそりとさらわれてしまうはと言う事で音楽の世界から姿を消してしまいはったんや。気の毒な話やで。」

「・・・。話をライトニンの吹き込みに戻しますが、ギャラはいくらぐらい払われたんですか?お金の話で恐縮ですが。」

「たしかレコード1枚につき75ドルやった。美味しい話やろ?その後、ライトニンのレコードはコンスタントに売れ続けるし、リル・サン・ジャクソンのレコードも飛ぶように売れるし、とにかく笑いが止まらない日々が続いたな。わはははは。」

「リル・サン・ジャクソンの吹き込みはどういう経緯で?」

「あ、それはリル・サン自ら娯楽施設で作ったとかいうアセテートレコードを1枚送って来よってな、それ聴いて即レコーディングを決定したんや。」

「しゃーけど、ビルさん。ゴールド・スター・レコードってもともと“KING OF THE HILLBILLIES”って言うぐらいやから、黒人向けのブルースを吹き込むつもりではなかったんとちがいますのん?」

「そこはそれ、ビジネスやがな。売れそうな物は何でも積極的に世に送り出さねばならぬのじゃよ。正直な話、黒人向けレコードなんかを取り扱う白人のディーラーを探すのは困難を極めた。けど、嬉しいことにエディー・ヘンリーちゅう男がよく頑張ってくれて、エル・パソ、ダラス、ビューモント、ニューオーリンズさらにはシカゴまで販売ルートを開拓してくれたんじゃ。」

「そういったビルさんの成功もあって次々とテキサスにもスタジオや独立レーベルが誕生する事になったわけですな?」

「ま、その影響かどうかは知らんが、1948年以降にはライバルのA・C・Aスタジオやらフリーダム・レコード、マーシー・レコードなんかが出来てきたのは確かやけどな。という事で本日のお話はこれでおしまい。最後にマーシー・レコードから発表されたレスター・ウィリアムズのウインター・タイム・ブルースをお聴きください。(埋め込み無効となっているので『ユーチューブで見る』をクリックしてね。)次回もお楽しみに。」

「ビルさん。勝手に仕切られたら困りまっせ。それに『次回もお楽しみに』って、まだ続くんですかいな?  あらら、どっか行ってしもたがな・・・。」

2010年1月 7日 (木)

ビル・クイン大いに語る

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「あ、どうもどうもお待たせいたしました。ビル・クインさん。」
「お待たせいたしましたやあらへんがな。この寒空の下で長い事待たせてからに。
茶の一杯も出て来んとは、どう言うことや?」
「とんまてん。とんまてん。それではゴールド・スター・レーベル設立に至る経緯から
お話ください。」
「よっしゃ、よっしゃ。あれは、ワシがヒューストンでラジオの修理業を営んでた時やった。たしか1942年やったと記憶しとるが、一人の客に当時目新しかったホーム・ディスク・レコーダーの修理を頼まれてな。」
「ほうほう」
「それ見て、吃驚仰天すると同時に『これや!これで一発当てたろ』と思ったね。
そこで、早速、自分も購入して、お祝い用レコードやら戦地に送るメッセージ・レコードなんかを委託録音・発売する様になったんや。ま、レコードちゅうても、ボール紙にプラスチックをコーティングしたチャチな代物じゃったがの。」
「それからですね?本格的なレコード会社を立ちあげようと決意されたんは。」

「そうじゃ。なんせ当時の南部には、レコード会社はおろか、録音スタジオも無かったじゃろ?レコード作るためには、わざわざ北部まで出向くか、機材持った連中が北部から出張録音ちゅう形でやって来よるのを待つかしか無かったからな、
『この辺にワンサカといてる優れた連中を自分の手で売り出してやろう。』と
ま~、こない考えたわけじゃ。」
「さすが、クインさんですね。目ぇの付けどころが違いますな。」
「はははは。しかし、レコード作りは、そう簡単なもんやない。アセテート盤に録音してからマスター・レコード→マザー・レコード→スタンパー作成という一連の工程が必要なのじゃが、さぁ、それを全て自分でやらなあかん。
大手レコード会社が教えてくれる筈もないし・・・。研究・研究の毎日やったで。いやほんま。」
「なるへそ。そういう血のにじむような努力が実って、遂にゴールド・スター・レコード会社が誕生したわけですな。」
「まぁ、そういうこっちゃ。しかし君、『血のにじむような』ちゅう表現はあかんやろ?」
「へ?」
「まるで、躓いて転んだ時に『あたたた。ありゃ?膝小僧すりむいてしもたがな。あ~、血がにじんどる。赤チン塗っとこ。』と言うてるみたいや。
インパクトに欠けるぞ。ここは『血潮したたるような』と言ってもらわんと・・。」
「あ、これは失敬いたしました。
(どっちゃでもええがなそんな事は。)そして、記念すべきケイジャンの古典、ハリー・コーツの“Jole Blon”の発表となるわけですね。
ユーチューブで見つけたので御一緒にご覧ください。」

「どうです?ビル・クインさん。当時の事を思い出されて感慨深いものがあるのでは?ちなみに、途中で砂嵐の場面が出てきますが、この映像は1930年代に甚大な被害をもたらした『ブラック・ブリザード』でしょうかね。」
「う~~ん。最後に出てくる別嬪さんと踊り子は別人やな。ワシの目に狂いはない。」

「・・・・・・・・・。さよか・・・・。ところで、この当時のビル・クイン録音スタジオについてお聞きしますけど、さぞかし凄い設備が揃えられてたんでしょうね。」

「最初の頃はそうでも無かったな。ま倉庫兼スタジオと言うか・・・。必要な時だけレコードやらそこらの物を片付けて録音したんや。え?音響設備?そんなもん特に必要無かったがな。壁一面にペタペタと卵のケースを張るだけで十分いけたがな。」

「た、卵のケースですか?」

「なにか不満でも?それより一番困ったのは、SPの原料にするシェラックの調達や。なんせ第二次世界大戦直後の事、シェラックは軍隊に優先的に回されたのでなかなか入手が困難な状況下にあったさかいに・・。」

「シェラックは、どういう形で軍隊で使われたんでしょうかね。」

「迷彩塗装に必要やったんや。戦車とかトラックとかのな。ま、それはともかく、シェラック不足の対応として、ワシは発想を転換させてな。『古いレコードの再利用』という名案を思いついたのじゃ。各家庭で聴かれなくなったレコードを10セントで買い集めてな、それを一旦溶かしてから、もう一度SPとして再生させるという寸法じゃの。」

「え~~。無茶しまんな。貴重なSPも溶かされてしもたんとちゃいますのん?」

「さ~っ。文化的創造は破壊から始まるのとちゃうやろか。」



正月明け早々にもかかわらず続くらしい


2010年1月 5日 (火)

TEXAS BLUES

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さてさて、2010年最初にご紹介するのは、テキサス初の独立レーベル「ゴールド・スター」を設立したビル・クインによって録音されたテキサス・ブルースのコンピ物。
なんといってデビュー作「ロバータ・ブルース」を始めとするリル・サン・ジャクソンの10曲の作品が収録されているのが嬉しい所。ライトニンの影に隠れて?もうひとつ人気のないリル・サン・ジャクソンですが、これを聴いていただければ虜になること間違い無しといった感があります。(ガロート珈琲のokamiも『ライトニンよりこっちの方が好きかも・・・』とおっしゃってました。)

ライトニンのギター(スクラッパー・ブラックウェル風!)をバックに歌う相棒ピアニストのサンダー・スミス、渋い味わいの「ライトニン・Jr」ことL.C.ウィリアムズ、その他リロイ・アービン、バディー・チャイルズ、アンディー・トーマス、ペリー・ケイン(バスター・ピケンズの素晴らしいピアノが聴きどころ)ほとんど正体不明の面々も出色の出来でございます。
なにはともあれ、戦後テキサス・ブルースのお好きな方にはぜひお薦めの作品であることには間違いがないでしょう。
これらの作品を後世に残してくれたビル・クインさんの功績は実に大きいものがありますね?
てなわけで、本日のオマケはライトニンのピアノをバックに歌う
L.C.ウィリアムズ。
それでは又、お会いしましょう。

「ちょ~と待った!せっかくの機会や。ワシが語ってあげよう。」
「へ?あ!ビル・クインさんやおまへんか。」
「そやがな。誉められたら出てこんわけにいかん。ちょっとお時間を拝借してゴールド・スター・レーベルの事を話してあげようかな。」
「話してもらうのはよろしいけどね、私、昨日から仕事始ってますねん。時間が・・・。」
「そんなことは些細な問題じゃ。待っといたるから喋らせるようにせい。」
「わ、わっかりました。
正月早々えらいことになってきたがな、も~。

2010年1月 1日 (金)

謹賀新年

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2010年も宜しくお願い申し上げます。